BATAILLE / ECONOMY / ART
バタイユの蕩尽とは?
活動の価値を、生産への役立ちだけで測れるのでしょうか。バタイユの1933年論考「蕩尽の概念」は、芸術や遊びを含む支出からこの問いを考えます。
先に答え
「蕩尽」(dépense)は、生命維持や生産を支える消費と分けられる、実用的な成果の獲得を目的としない非生産的支出です。あらゆる支払いや浪費の総称ではなく、損失を軸に有用性の尺度を問う語です。
役に立つことだけで価値を測ると
活動の価値を生産や保存だけに結びつけると、芸術や遊びの快は働きへ戻るための休息に従属します。問われるのは生産の必要性ではなく、有用性が価値を語り尽くすかどうかです。
ここでは問いの軸を分けておきます。贈与のガイドが与える・受け取る・返すという関係を扱い、昇華のガイドが欲動の目標や経路の文化的な組み替えを扱うのに対し、このページは生産の有用性だけを価値の尺度にすることと、損失を伴う支出の位置を扱います。
維持のための消費と、目的としての支出
論考は、生命維持や生産の継続に使う消費と、実用的な結果ではなくそれ自体を目的とする支出を分けます。「蕩尽」は料金や日常の買い物全般を指すのではなく、損失が前に出る場面を考える語です。
説明例として、食事をして仕事を続ける場合と、音そのものを聴く時間を比べます。これはバタイユの例ではありません。前者は維持に結びつき、後者には成果へ還元できない経験が含まれますが、実際の行為は二分しきれません。
芸術では、実際の支出と象徴的な損失が重なる
論考では、建築・音楽・舞踊に実際の支出が現れます。彫刻や絵画、儀式や見世物のための場所の使用を挙げ、建築にも象徴的な支出が入り込むと述べます。音楽や舞踊も外的な意味を帯びます。文学や劇では、没落や死のような損失が象徴として表されます。作品を実際か象徴かの一方に固定する話ではありません。
説明例として、催しの料金を払う出来事と劇中の喪失を比べます。前者は現実の支払い、後者は作品内の表現です。同じ芸術に両方の層が重なることもあります。
1933年の論考と、その後の読み
Lauro Eusébioの研究は、1933年の論考を現代の消費社会の予言として単純化せず、初期の経済論として歴史的に読み直しています。生産過程に消費が組み込まれる範囲が広がることと、有用性を価値の尺度とする考えへの批判は、同じ主張ではありません。この論考を、現代に生きる人々の消費や経験を測定する理論へ置き換えることもできません。
佐々木雄大の博士論文要旨は、『浪費の概念』の草稿や異稿をたどり、有用性が自己目的化する困難と、後続著作における議論の展開を扱います。ここで読んでいる1933年の論考を、1949年の「一般経済」やバタイユの後年の著作全体と同一視しないためにも、論考の時期と後の展開を分けておきます。
YOKUDŌの画面で「価値」を読む
《脈》では、赤い左面と暗い右面のあいだを、枝分かれする金色の線が斜めに走り、白灰色の曲線や散った金色の小片が見えます。金色を財として数える読み方も、線の枝や曲がりのリズムを眺める読み方もできます。見る時間の価値を、実益だけで説明し切れるでしょうか。
これはこのガイドから始める一つの問いであり、作者の意図や鑑賞者全員の反応についての主張ではありません。画面を見る経験を、生産性の評価へすぐ回収しない余地を残します。
Sources
- Georges Bataille, “La notion de dépense,” La Critique sociale, no. 7 (January 1933), pp. 7–15 — 有用性の批判と芸術の損失について、第1節の関連箇所と第2節(原刊行pp.7–10)を参照。
- Lauro Eusébio, “The emergence of expenditure: on Georges Bataille’s first economic essay,” Nova Economia 35(2), 2025, DOI: 10.1590/0103-6351/8545 — 導入、§2後半、§3、結論を参照し、1933年論考を現代消費社会の予言として単純化することへの留保を確認した。
- 佐々木雄大「バタイユにおけるエコノミーと贈与」博士論文要旨、2012年 — 要旨本文を参照し、『浪費の概念』の草稿・異稿と後続著作の展開に関する研究概要を確認した。